ダイエーと松下電器の「30年戦争」

本日はダイエーと松下電器の「30年戦争」に関して記載します。

1964年の東京オリンピック以降、ダイエーと松下電器は30年戦争と言われる戦いを繰り広げていました。

 戦いの経緯は次なようなものとなります。1950年代、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の三種の神器と言われる商品が大ヒットし、1959年には当時の皇太子殿下のご成婚パレードの中継を見るためにテレビの購入者が増えたそうで、その普及率は50%を超えました。ダイエーが家電製品の取り扱いを始めたのは1960年から。それらの販売価格は平均して30~40%ほど他の小売店よりも安く販売されていました。当初、大手メーカーはダイエーのそのような動きを相手にしていませんでした。ところが1964年東京オリンピック後、事態は一転します。東京オリンピック後、日本は不況となり、製品が売れなくなりました。そのような中で安売りをするダイエーの動きは、家電メーカーにとって主要な取引先である個人経営の家電販売店を苦しめることになり、見過ごすことができなくなったのです。松下電器は、ダイエーの安売りを抑えられないようでは取引先との信頼関係にひびが入ると考え、松下電器が指示する定価販売ができなければ出荷停止するという措置を取りました。それに対しダイエーは、大手メーカーの商品が販売できないとなるとお客様に評価されなくなってしまうと、バイヤーが全国を回って現金問屋など松下電器のテレビを売ってくれる業者から仕入れてきました。今後は松下電器が部品のロットナンバーからダイエーに販売した業者を見つけ出し取引をできないようにしました。ダイエーも商品のロットナンバーを消して店頭に並べるといった対抗策をとりましたが、これに対して松下電器は肉眼では見えない特殊な光線で判別できるブラックナンバーを自社製品につけて取引先を見つけ出せるようにするという対策を取りました。このようなイタチごっこの後、1970年にはダイエーが独自の低価格テレビ「ブブ」を販売。今ではPBやSPAと珍しいことではありませんが、当時は小売業であるダイエーが製造段階まで進出したと大きなニュースになったようです。1975年、松下幸之助が中内㓛を京都にある別邸に呼び、「もう覇道はやめて王道を歩むことを考えてはどうか。」と投げかけますが、物別れに終わります。1989年、ダイエーと和解できないまま松下幸之助は逝去。その5年後、1994年、松下電器と取引のあった東京のスーパーマーケット忠実屋をダイエーが吸収合併したのを機に、その取引を継承する形で和解に至りました。

この両者の戦いはカリスマ的な経営者の松下電器創業者「松下幸之助」とダイエー創業者「中内㓛」の考え方の違い・立場の違いがもたらしたものでした。松下幸之助は「水道哲学」と言われ、「水道の蛇口からあふれ出る水がとても安い料金であるのと同じように、自分たちメーカーが大量の製品を安く提供できれば人々を幸せにできる」という考えでした。一方で中内㓛は「小売業が努力して事業規模を拡大し、大手メーカーとの取引を主導できるような状況になれば、店頭で消費者に販売する際の価格をもっと下げることができる。そうすれば、多くの消費者が製品を安く購入することができ、節約したお金でさらにほかの製品やサービスを手に入れ、国民生活が向上する」という考え方でした。

 価格設定は利益率に影響する重要な戦略の一つです。この30年戦争、メーカー側の戦略・小売側の戦略ともに良い商品を安く消費者に提供するという考え方であったにもかかわらず、長い間和解に至ることができなかった出来事です。考えるに、ダイエー側としては安売りで回転率を上げ、利益を得るという立ち位置だったのに対し、松下電器としては、そこまでの安売りは自社の利益を目減りさせブランド価値を下げると判断したのではないかと思います。また、この戦いは川上と川下の壮絶な勢力争いだったのではないかとも感じました。

 (参考文献 1からのリテール・マネジメント)

ダイエーの没落

本日はダイエーの没落に関して記載します。

【ダイエーの発展】

高度経済成長の中で人々が地方から大都市へ集まってくるのとともに、ダイエーは成長を果たしていきます。ダイエーのビジネスモデルの基本は『不動産の購入による成長』というものでした。そのビジネスモデルの流れとしては、住宅が増えていく地域に借金をして不動産を購入して店を建てる→その地域に人々が集まり、店舗に多くの顧客が集客でき、不動産の価値が上がる→価値の上がった不動産を担保に金融機関から更に借り入れをする→集めた資金を元手に新たな不動産へ再投資する、といったものでした。

ダイエーの不動産ビジネスは1980年代後半のバブルのころに、さらに加速。積極的な企業買収を行うようになります。銀座のリッカービル、リクルート、ハワイ最大のアラモアナショッピングセンターなどを次々に買収。同社の負債は増えていきますが、それ以上のスピードで同社の資産額は増え、小売業としての売上も拡大していきました。

【イトーヨーカ堂とダイエー ビジネスモデルの違いによる成長スピードの違い】

ダイエーの不動産を購入することにより売上を拡大していくビジネスモデルの成長スピードの速さは、イトーヨーカ堂と比較するとその速さがわかります。イトーヨーカ堂の創業は1958年。それに対しダイエーは、その前進である大栄薬品工業を1957年に設立しています。両社の創業した時期はそれほど変わりません。ところが、ダイエーが三越百貨店を抜いて日本一の売上規模になった1972年、イトーヨーカ堂はトップ10にも入っていませんでした。不動産の価値上昇を織り込んだ成長戦略は、当時の時代背景からいうと、それだけ競合から優位に立てる戦略だったと言えそうです。

【ダイエーの没落】

ところが、バブルが崩壊し資産価値の暴落が始まると、ダイエーの強さを支えてきた不動産購入による成長戦略が裏目に出ることとなります。巨額の負債を抱え続ける一方で、同社が保有する資産価値は急速に縮小していきます。こうした中で、銀行もダイエーに融資を続けることが困難となってきます。この状況に対して、ダイエーはアラモアナショッピングセンターやリクルートなどの資産を売却し借金返済をしていくこととなりますが、結局、産業活力再生特別措置法の下で事業再生するまでに追い詰められてしまいます。そして今ではイオングループの傘下となっています。それまで強みであった戦略が経済・社会環境の変化で一転して足かせとなってしまったのです。

バブル崩壊によりダイエーだけでなく、マイカル、そごう、長崎屋などの企業が凋落していくこととなりました。一気に成長路線に入るときには、何らかの手法によって資金を集め、投資に回すことが必要です。ダイエーの戦略はその点では正しかったようにも思われます。ただ、経済・社会の変化の先を読み間違えたために、そのような事態に陥ったのでしょう。バブル崩壊に伴う多くの企業の凋落は、経済・社会環境を理解し、出来うる限り先を読めるようにしておくことの必要性を表しているようにも感じられます。

(参考文献 「流通大変動 現場から見えてくる日本経済」)