総合スーパーの戦略の転換

本日は総合スーパーの戦略の転換に関してアップします。

 今日、イオングループの「まいばすけっと」に行ってみました。「まいばすけっと」とはイオングループの都市型小型食品スーパーマーケットです。今日行った店は駅から歩いて5,6分のところにあり、周辺地域は静かな住宅街でした。「まいばすけっと」は店の外から見るとコンビニのような佇まい。しかしながら、店自体はコンビニよりちょっと大きめの規模で展開しているように感じました。また、コンビニとの違いは店内で販売しているものがほとんど100%近く食料品。しかも安め。チェーン店の什器陳列に見られるような店舗レイアウトになっていてコンビニとはそういったところも違うかなという感想を持ちました。

 「まいばすけっと」は店舗形態としてコンビニに類似していますが、“営業時間が7時(8時)~23時まで”“売上高に占める生鮮食料品の割合が約30%”“商品の価格設定が総合スーパー(イオン)や食料品スーパーに準じている”といった点からコンビニとは異なる性格を持っています。2011年12月現在、東京23区、川崎市、横浜市に出店地域を集中させていて店舗数は238店舗。「居抜き物件」を出店先に選び建設にかかる初期投資を抑え、大量出店につなげてきました。商圏規模についてはコンビニほどの店舗面積ということもあるためか、基本的に半径300m以内かつ2000世帯以上に設定されています。

 過去、イオンは広い用地が確保できる郊外地域あるいは既成市街地の工場跡地に広域型ショッピングセンターを出店する戦略を取っていました。この戦略は1990年代から2000年代前半までは集客力を高める手段として確立していましたが、2006年に改正された都市計画法で広域型ショッピングセンターによる出店が難しくなりました。また、少子高齢化に伴う市場の縮小の影響で、広域型ショッピングセンターの出店は飽和状態にもなっています。自動車での利用を前提としたイオンにとって、広域型ショッピングセンターに替わる業態の開発を模索していました。その中で大都市内部の既成市街地は人口密度の高さから食料品に対する潜在的な需要が見込める有力な市場であるにもかかわらず、地価価値が高く大型店の展開が難しく、イオンにとって未開拓の地域でした。そこで「まいばすけっと」を大量出店し、短期間で大都市内部の既成市街地へのシェア拡大を図ったということになります。

 次にイトーヨーカ堂を見てみます。イトーヨーカ堂は2000年代に関東地方へ出店した34店の大半が東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の大都市圏に限定されていて、ドミナントエリアとして東京大都市圏に深耕化を図っています。そして、2000年代後半イトーヨーカ堂は新たな広域型ショッピングセンター「Ario」を開発。また、既存店を業態転換したディスカウントストア「ザ・プライス」を展開。このような重層的な店舗展開をドミナントエリア(東京大都市圏)で行うことにより、勢力の維持と多様な消費者の需要を満たそうとしています。

イオンがとっている戦略にしてもイトーヨーカ堂がとっている戦略にしても、業態として総合スーパーに依存しないビジネスモデルを構築しようと試みているということが言えます。世界の小売業売上高ランキングの14位と17位の企業がチャレンジし続けています。変化への対応・現状を維持することに留まらないための努力が市場から求められているのかもしれません。

 (参考文献:小商圏時代の流通システム)

ダイエーの没落

本日はダイエーの没落に関して記載します。

【ダイエーの発展】

高度経済成長の中で人々が地方から大都市へ集まってくるのとともに、ダイエーは成長を果たしていきます。ダイエーのビジネスモデルの基本は『不動産の購入による成長』というものでした。そのビジネスモデルの流れとしては、住宅が増えていく地域に借金をして不動産を購入して店を建てる→その地域に人々が集まり、店舗に多くの顧客が集客でき、不動産の価値が上がる→価値の上がった不動産を担保に金融機関から更に借り入れをする→集めた資金を元手に新たな不動産へ再投資する、といったものでした。

ダイエーの不動産ビジネスは1980年代後半のバブルのころに、さらに加速。積極的な企業買収を行うようになります。銀座のリッカービル、リクルート、ハワイ最大のアラモアナショッピングセンターなどを次々に買収。同社の負債は増えていきますが、それ以上のスピードで同社の資産額は増え、小売業としての売上も拡大していきました。

【イトーヨーカ堂とダイエー ビジネスモデルの違いによる成長スピードの違い】

ダイエーの不動産を購入することにより売上を拡大していくビジネスモデルの成長スピードの速さは、イトーヨーカ堂と比較するとその速さがわかります。イトーヨーカ堂の創業は1958年。それに対しダイエーは、その前進である大栄薬品工業を1957年に設立しています。両社の創業した時期はそれほど変わりません。ところが、ダイエーが三越百貨店を抜いて日本一の売上規模になった1972年、イトーヨーカ堂はトップ10にも入っていませんでした。不動産の価値上昇を織り込んだ成長戦略は、当時の時代背景からいうと、それだけ競合から優位に立てる戦略だったと言えそうです。

【ダイエーの没落】

ところが、バブルが崩壊し資産価値の暴落が始まると、ダイエーの強さを支えてきた不動産購入による成長戦略が裏目に出ることとなります。巨額の負債を抱え続ける一方で、同社が保有する資産価値は急速に縮小していきます。こうした中で、銀行もダイエーに融資を続けることが困難となってきます。この状況に対して、ダイエーはアラモアナショッピングセンターやリクルートなどの資産を売却し借金返済をしていくこととなりますが、結局、産業活力再生特別措置法の下で事業再生するまでに追い詰められてしまいます。そして今ではイオングループの傘下となっています。それまで強みであった戦略が経済・社会環境の変化で一転して足かせとなってしまったのです。

バブル崩壊によりダイエーだけでなく、マイカル、そごう、長崎屋などの企業が凋落していくこととなりました。一気に成長路線に入るときには、何らかの手法によって資金を集め、投資に回すことが必要です。ダイエーの戦略はその点では正しかったようにも思われます。ただ、経済・社会の変化の先を読み間違えたために、そのような事態に陥ったのでしょう。バブル崩壊に伴う多くの企業の凋落は、経済・社会環境を理解し、出来うる限り先を読めるようにしておくことの必要性を表しているようにも感じられます。

(参考文献 「流通大変動 現場から見えてくる日本経済」)