日本のSCの歴史

本日は日本のSC(ショッピングセンター)の歴史に関連して記載します。

 SCの歴史は1920年代のアメリカで始まりました。フォードなどの自動車会社が自動車の大衆化を実現させ、ハイウェイ網が整備され、「郊外に暮らしてクルマで買い物に出かける」というライフスタイルが浸透。それに伴いSCが全米各地に広がっていきます。

 日本のSCの幕開けは1960年代。高度経済成長に伴い自家用車が普及したことにより、ターミナル駅にある百貨店や地元商店街で買い物するというという選択肢に加え、郊外型SCに買い物に行くという選択肢が加わりました。日本の本格的な郊外型SCは1969年に東京の二子玉川駅にオープンした「玉川髙島屋ショッピングセンター」となります。当時の二子玉川駅周辺はところどころに畑の点在するのどかな住宅地でしたが、田園調布や成城学園など有名な住宅地が近くにあり商圏としても有望でしたし、鉄道や幹線道路・高速道路のインターチェンジのある交通の要でもありました。100を超える専門店が集結したSCであり、その誕生は当時かなり話題になったようです。

アメリカは移民と開拓の国なので、地元で昔から発展してきたような商店街がなく、同じものを効率的に大量に作り、各地に大量に供給することが求められていました。SCに関してもそういった前提を受けて作られてきた経緯があります。それに対して日本では、地域ごとに商店街が発展していて、独自の消費文化が根付いていました。アメリカと違って買い物に行くためにクルマに乗ってまとめ買いをしなくても、地元の商店街でちょくちょく買い物ができる環境にあったのです。そのため消費者が求めるものも「鮮度」や「地域の嗜好にあった品揃え」だったといいます。そのことから、日本のSCは当初、上記の要望を受ける形で、都市部を中心にGMS(総合スーパー)を核として、様々な小売り業態を組み合わせる日本独自の形態で発展してきたと言います。

また、法律の動きを受けて日本のSCは規制と緩和を受けながら発展してきています。1974年に施行された大規模小売店舗法(大店法)でSC開発は規模や営業時間・営業日数などの面から制約を受けましたが、その後2000年に「まちづくり三法」の一部として大規模小売店舗立地法(大店立地法)が施行され、出店規模に関してはほとんど審査を受けないようになりました。それを受けて、より大規模で複合的なSC(リージョナルショッピングセンター(RSC))が開発されていきます。その後、2006年に「中心市街地活性化法」「都市計画法・建築基準法」の改正があり、延べ床面積が1万平方メートルを超す大規模集客施設の出店は、商業・近隣商業・準工業の三地域を除き、原則出店できなくなります。

アメリカを模倣して作られたSCは日本の環境や法律の内容を受け独自の発展を遂げてきました。店舗出店に関して都心回帰が見られる中、郊外型SCがどのような存在として今後戦っていくのか興味深いものがあります。

 (参考文献 成功するSCを考えるひとたち)

ダイエーと松下電器の「30年戦争」

本日はダイエーと松下電器の「30年戦争」に関して記載します。

1964年の東京オリンピック以降、ダイエーと松下電器は30年戦争と言われる戦いを繰り広げていました。

 戦いの経緯は次なようなものとなります。1950年代、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の三種の神器と言われる商品が大ヒットし、1959年には当時の皇太子殿下のご成婚パレードの中継を見るためにテレビの購入者が増えたそうで、その普及率は50%を超えました。ダイエーが家電製品の取り扱いを始めたのは1960年から。それらの販売価格は平均して30~40%ほど他の小売店よりも安く販売されていました。当初、大手メーカーはダイエーのそのような動きを相手にしていませんでした。ところが1964年東京オリンピック後、事態は一転します。東京オリンピック後、日本は不況となり、製品が売れなくなりました。そのような中で安売りをするダイエーの動きは、家電メーカーにとって主要な取引先である個人経営の家電販売店を苦しめることになり、見過ごすことができなくなったのです。松下電器は、ダイエーの安売りを抑えられないようでは取引先との信頼関係にひびが入ると考え、松下電器が指示する定価販売ができなければ出荷停止するという措置を取りました。それに対しダイエーは、大手メーカーの商品が販売できないとなるとお客様に評価されなくなってしまうと、バイヤーが全国を回って現金問屋など松下電器のテレビを売ってくれる業者から仕入れてきました。今後は松下電器が部品のロットナンバーからダイエーに販売した業者を見つけ出し取引をできないようにしました。ダイエーも商品のロットナンバーを消して店頭に並べるといった対抗策をとりましたが、これに対して松下電器は肉眼では見えない特殊な光線で判別できるブラックナンバーを自社製品につけて取引先を見つけ出せるようにするという対策を取りました。このようなイタチごっこの後、1970年にはダイエーが独自の低価格テレビ「ブブ」を販売。今ではPBやSPAと珍しいことではありませんが、当時は小売業であるダイエーが製造段階まで進出したと大きなニュースになったようです。1975年、松下幸之助が中内㓛を京都にある別邸に呼び、「もう覇道はやめて王道を歩むことを考えてはどうか。」と投げかけますが、物別れに終わります。1989年、ダイエーと和解できないまま松下幸之助は逝去。その5年後、1994年、松下電器と取引のあった東京のスーパーマーケット忠実屋をダイエーが吸収合併したのを機に、その取引を継承する形で和解に至りました。

この両者の戦いはカリスマ的な経営者の松下電器創業者「松下幸之助」とダイエー創業者「中内㓛」の考え方の違い・立場の違いがもたらしたものでした。松下幸之助は「水道哲学」と言われ、「水道の蛇口からあふれ出る水がとても安い料金であるのと同じように、自分たちメーカーが大量の製品を安く提供できれば人々を幸せにできる」という考えでした。一方で中内㓛は「小売業が努力して事業規模を拡大し、大手メーカーとの取引を主導できるような状況になれば、店頭で消費者に販売する際の価格をもっと下げることができる。そうすれば、多くの消費者が製品を安く購入することができ、節約したお金でさらにほかの製品やサービスを手に入れ、国民生活が向上する」という考え方でした。

 価格設定は利益率に影響する重要な戦略の一つです。この30年戦争、メーカー側の戦略・小売側の戦略ともに良い商品を安く消費者に提供するという考え方であったにもかかわらず、長い間和解に至ることができなかった出来事です。考えるに、ダイエー側としては安売りで回転率を上げ、利益を得るという立ち位置だったのに対し、松下電器としては、そこまでの安売りは自社の利益を目減りさせブランド価値を下げると判断したのではないかと思います。また、この戦いは川上と川下の壮絶な勢力争いだったのではないかとも感じました。

 (参考文献 1からのリテール・マネジメント)

まちづくり3法

今日はまちづくり3法に関してアップします。

まちづくり3法とは「生活環境への影響など社会的規制の側面から大型店の出店の新たな調整の仕組みを定めた『大規模小売店舗立地法(大店立地法)』」、「中心市街地の空洞化を食い止め活性化活動を支援する『中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律(中心市街地活性化法)』」、「土地の利用規制を促進する『(改正)都市計画法』」の3つの法律を総称して言う法律で1998年に成立されました(大店立地法のみ2000年施行)。

まちづくり3法は都市計画の観点から大型店の立地を規制していこうと創設された法律でしたが、近年の店舗面積の拡大、中小小売業の事業所数の減少が表している通り、大型店の出店増加や郊外立地、店舗の大規模化は止まらず、中心市街地の空洞化も進んでいきました。そのような状況を受け、2006年に都市計画法と中心市街地活性化法が改正。都市機能の郊外への拡散の抑制、中心市街地の再生、都市のコンパクト化とにぎわいの回復を目指した法改正が行われたのです。

まちづくり3法に限定していうと、そもそも大型店の立地の流れは出店場所が「都市計画法」上、立地しても良い場所かどうかで判断された上で、可能な場所であれば「大店立地法」の届け出による審査で立地が決まります。

その都市計画法ですが、大型店の立地に影響する制度として大きく「区域区分」と「用途区分」の2つあります。「区域区分」はすでに市街地を形成している区域と概ね10年以内に優先的、計画的に市街化を図るべき区域の「市街化区域」と市街化を抑制すべき「市街化調整区域」とに区分する制度です。そういえば町を歩いているとたまに空き地のような場所に「ここは市街化調整区域です」という看板が立っているのを見たような気がします。次に「用途区分」に関してですが、「市街化区域」を更に細分化するイメージで、住宅、商業、工業など市街地の大枠としての土地利用を定めているもので、現在12種類あります。身近な例だと、よく不動産の図面で載っているもので商業とか工業とかでしょうか。以上のようにこの法律により、まず市街地と市街地でない区分にわけ、無秩序な市街地拡大の防止と良好な市街地の形成を図り、そして市街地では住宅用地や商業用地、工業用地などに区分し、住み良いまちを形成しようとしています。

さて、まちづくり3法が1998年にできたにもかかわらず、大型店の出店攻勢が衰えず、店舗立地の郊外化と店舗の大型化に歯止めがかからなかったかということについてですが、2006年の都市計画法改正以前では大型店の立地は市街化調整区域では原則不可だったのですが、非線引き白地地域や都市計画区域外・第2種住居地区や準工業地区では大型店の立地に床面積の制限がなかったということがあります。こういったことを受けて2006年に都市計画法と中心市街地活性化法が改正されたのです(大規模集客施設の立地は近隣商業地域、商業地域、準工業地域に限定された)。この法改正後、チェーンストアはショッピングセンターの新規出店を減退させるとともに、大型店とコンビニの中間的な食料品スーパーなどの出店を増やしているようです。

 様々な法律や社会の仕組みの変化に伴って商環境は変わってきます。ただ、どう変わるか100%わかるわけではありません。ヤマダ電機が郊外で力をつけて、都心部に進出し、今では世界の小売業売上高ランキング34位に入っているように、日々着実に実力をつけるように努力していくしかないのかもしれません。

 (参考文献:小商圏時代の流通システム)

ダイエーの没落

本日はダイエーの没落に関して記載します。

【ダイエーの発展】

高度経済成長の中で人々が地方から大都市へ集まってくるのとともに、ダイエーは成長を果たしていきます。ダイエーのビジネスモデルの基本は『不動産の購入による成長』というものでした。そのビジネスモデルの流れとしては、住宅が増えていく地域に借金をして不動産を購入して店を建てる→その地域に人々が集まり、店舗に多くの顧客が集客でき、不動産の価値が上がる→価値の上がった不動産を担保に金融機関から更に借り入れをする→集めた資金を元手に新たな不動産へ再投資する、といったものでした。

ダイエーの不動産ビジネスは1980年代後半のバブルのころに、さらに加速。積極的な企業買収を行うようになります。銀座のリッカービル、リクルート、ハワイ最大のアラモアナショッピングセンターなどを次々に買収。同社の負債は増えていきますが、それ以上のスピードで同社の資産額は増え、小売業としての売上も拡大していきました。

【イトーヨーカ堂とダイエー ビジネスモデルの違いによる成長スピードの違い】

ダイエーの不動産を購入することにより売上を拡大していくビジネスモデルの成長スピードの速さは、イトーヨーカ堂と比較するとその速さがわかります。イトーヨーカ堂の創業は1958年。それに対しダイエーは、その前進である大栄薬品工業を1957年に設立しています。両社の創業した時期はそれほど変わりません。ところが、ダイエーが三越百貨店を抜いて日本一の売上規模になった1972年、イトーヨーカ堂はトップ10にも入っていませんでした。不動産の価値上昇を織り込んだ成長戦略は、当時の時代背景からいうと、それだけ競合から優位に立てる戦略だったと言えそうです。

【ダイエーの没落】

ところが、バブルが崩壊し資産価値の暴落が始まると、ダイエーの強さを支えてきた不動産購入による成長戦略が裏目に出ることとなります。巨額の負債を抱え続ける一方で、同社が保有する資産価値は急速に縮小していきます。こうした中で、銀行もダイエーに融資を続けることが困難となってきます。この状況に対して、ダイエーはアラモアナショッピングセンターやリクルートなどの資産を売却し借金返済をしていくこととなりますが、結局、産業活力再生特別措置法の下で事業再生するまでに追い詰められてしまいます。そして今ではイオングループの傘下となっています。それまで強みであった戦略が経済・社会環境の変化で一転して足かせとなってしまったのです。

バブル崩壊によりダイエーだけでなく、マイカル、そごう、長崎屋などの企業が凋落していくこととなりました。一気に成長路線に入るときには、何らかの手法によって資金を集め、投資に回すことが必要です。ダイエーの戦略はその点では正しかったようにも思われます。ただ、経済・社会の変化の先を読み間違えたために、そのような事態に陥ったのでしょう。バブル崩壊に伴う多くの企業の凋落は、経済・社会環境を理解し、出来うる限り先を読めるようにしておくことの必要性を表しているようにも感じられます。

(参考文献 「流通大変動 現場から見えてくる日本経済」)