ユニクロ転換点

本日はユニクロの小売店舗ブランド向上に向けた取り組みに関して記載します。

【ファーストリテイリングの成長への転換点】

ファーストリテイリングは山口のメンズファッション小郡商事を前身とします。1984年にユニクロ店舗を広島に出店した当時は、売上高は約14億円、営業赤字1400万円に陥っていましたが、その後25年あまりの間に売上高で約580倍、店舗数で315倍の規模に成長しました。この成長の中でファーストリテイリングは様々な転換点を迎えます。最初の転換点は、1984年にユニクロ1号店出店に際して紳士服専門店からカジュアル衣料品専門店へ転換したことです。そして、1991年ごろにチェーンストア化を実行に移したことが次の転換点となります。続いて1994年に広島証券取引所へ上場し、134億円の資金を調達したことにより、全国チェーン構築への推進力を獲得したことが3番目の転換点。そして4番目の転換として、原宿店の出店とフリース・ジャケットの大規模投入を契機とする小売店舗のブランド化。最後に直近での2005年における柳井社長復帰と持ち株会社への移行決定に伴う事業の再構築です。

【ユニクロの小売店舗イメージ向上に向けた商品力強化】

前述のように、ファーストリテイリング社は1994年に広島証券取引所に上場したことにより、首都圏への出店も始めました。しかしながら、それらの店舗は、都市外縁部のロードサイドに立地していたため、100店舗の出店を達成していながら、ユニクロの関東地方における認知度は極めて低かったと言います。また当時のユニクロの品揃えは、ポロやラコステなどのディスカウント販売を軸に、リーバイスやヘインズ、フルーツ・オブ・ザ・ルームといったNB商品が約3割を占めていました。特異性の希薄な品揃えと周縁的な店舗立地であったため、「安かろう、悪かろう」が、多くの消費者が知覚するユニクロのイメージだったと言います。

こうした店舗イメージを払拭するべく、1996年にPB開発体制の充実を目的とし、東京事務所を渋谷区に開設し、商品開発体制の一本化を図ります。また、広告キャンペーン「ユニクロの悪口言って100万円」を実施し、ファーストリテイリングが推進していた商品調達体制の強化にとって有用となる膨大な消費者クレーム情報を入手したりしています。

柳井氏は「売(れ)るものがなければ小売業は成立しない」という信念のもと「売れる商品」を絞り込んで特定し、それらを迅速、確実に商品化するための体制づくりを推し進めていきます。その取り組みの中で、店頭に展開するアイテム数を400から200へと絞り込んだり、ユニクロ初期の成長を支えたNB商品の取り扱いを打ち切ったりしました。そしてカイハラや東レといった原料素材メーカーとの連携強化と革新的な定番商品の開発を志向するようになっていきます。併せて、生産を委託する工場の数を130から40へ削減。取引相手の数を限定し、各取引先への発注量を拡大することで、厳格な生産管理による品質向上と単品レベルでの期中生産の導入を図りました。

過去のPOSデータ分析も含め、こうした独自の戦略商品開発へ向けた取り組みを行うことで、定番化の見られる商品を抽出し、その企画・調達・販売に向けた準備を積み重ねていきます。そして、その中から登場した一つが、過去大ヒットしたフリースとなるのです。

【終わりに】

上記「ユニクロの悪口言って100万円」は1万件もの数のクレームを集めたそうで、インパクトもあり消費者からの様々な声も集められる手法として興味深いものがあります。一方で、ユニクロはその成長過程において「スポクロ」「ファミクロ」の失敗や大阪ミナミのアメリカ村店の業績不振など、決して常に成功し続けてきたというわけでもありません。失敗を糧にして自己変革を続け、あるべき理想の形に邁進してきたからこそ、今の成功があるようにも思われます。

(参考文献 日本の優秀小売企業の底力)

ヤマダ対コジマ

本日はヤマダ電機の成長の背景に関して記載します。

ヤマダ電機の売上高は2兆1533億円(2011年3月期)で、2位のエディオンの8200億円を大きく上回り、圧倒的な市場地位を獲得しています。1973年に松下電器系列店として8坪の店舗規模として創業したヤマダ電機は(当時ヤマダ電化センター)は、その後、低価格販売を行う家電量販店の道を進んでいきます。

【ライバル『コジマ』との戦い 低価格路線へ】

家電量販店の道を歩み始めたヤマダ電機は1983年に高崎店を含め3店、翌年には群馬県内に5店出店するなど、栃木県を中心に量販店を展開していたコジマとの競合を避けながら多店舗展開し、売上を伸ばしていきました。しかしながら、出店地域が拡大するとともに、ヤマダ電機とコジマの競合が避けて通れなくなりました。コジマは78年にロードサイド型店として宇都宮東店を出店して以降、郊外に多店舗展開を図り、87年には500平方メートルクラスの店をすでに50店展開していました。コジマとの差別化を図るべく、ヤマダ電機は1987年にNEBA(家電量販店各社が1972年2月に結成。メーカーおよびほかの小売店との協調路線と非価格競争を重視する方針)に加盟し、メーカーとの正規取引による定番商品の安定的な仕入れを行うとともに、無料点検の巡回車を走らせるなどサービス重視を打ち出します。しかし、低価格攻勢が強まる中、サービス重視は顧客の支持を得ることが出来ず、バブル崩壊後の1992年、ヤマダ電機の業績は急速に悪化してしまいます。この流れの中で、ヤマダ電機は家電製品の販売で顧客の支持を得るためには、何より低価格が第一であることを再認識し、コジマに負けない低価格を実現するためにコスト削減に乗り出します。93年にNEBAを脱退。価格競争で優位に立つためには、粗利を削って低価格を訴求するだけでなく、売場面積当たりの一般管理費を引き下げることが必要だと考え、店舗規模の大型化を図ります。また、仕入れ条件を改善するためにも多店舗化が必要でした。量を売ることによって低価格販売が可能になるからです。

【多店舗展開へ向けて『資金調達』】

ヤマダ電機が設備投資資金を調達しようとした時、景気後退の影響もあり、銀行からの資金調達が思うように進みませんでした。そこでヤマダは普通社債・転換社債を発行し、6.5億円を調達。また90年代、複数回にわたりスイスフラン建ての転換社債で多額の資金調達を実現しました。海外投資家から多額の資金を調達できたのは、ヤマダ電機に明確な成長戦略と株価成長のシナリオがあったためです。当時、大型店に対する規制が緩和されたことで、ヤマダ電機は「地価の安い郊外ロードサイドに低価格を訴求した大型店を多店舗展開し、マーケットシェアを高め、スケールメリットを活かして成長を加速する」いう明確な経営方針を投資家に表明していたのです。ヤマダ電機は市場から得た豊富な資金で大型の多店舗展開を進め、成長を加速。それにより売上高・利益が増加し株価も上昇。高株価を活かし、公募増資や転換社債の発行を相次いで実施し、1回数百億円単位で資金調達していきます。豊富な資金の調達に成功したことにより、ヤマダ電機は売上高を急増することに成功したのです。

【ヤマダ対コジマ 規制緩和の影響による勝敗の分かれ目】

ヤマダ電機が多店舗展開を本格化しようとした時期、大店法による大型店の出店規制が緩和されました。郊外ロードサイドに広い駐車場を備えた売場面積3000平方メートル以上、年商30~50億円超の大型店を展開することで売上高を急伸させていきます。それに対してコジマは大店法の規制が厳しい時代に多店舗展開を進めており、500平方メートル未満の店が多い状態でした。そのためコジマの小型店は大型店と比べ品揃えなどの面で競争が劣り、結果としてヤマダ電機は独走。ヤマダ電機の販売力が向上するにつれてメーカー販社は取引を拡大するようになっていきます。その結果、売れ筋商品が手に入りやすくなり、ヤマダ電機はその売れ筋商品をチラシに掲載し、低価格販売により集客。競合店名を出し、競合店より安いと表示する「比較売価表示」を実施することで、価格が安い店という企業イメージを消費者に植え付けていきます。1996年にコジマの本拠地である宇都宮に出店する際には、オープン記念で目玉とした1円商品が、マスコミから注目されました。

【パソコンの普及の波に乗る先見性】

ヤマダ電機は2000年代、売場面積3000平方メートル級を標準とするテックランド店を出店戦略の要としました。その広い売場の半分に、それまで扱っていた白物家電などの家電製品を置き、残り半分をこれまで家電ディスカウンター各社があまり扱ってこなかったパソコンや関連商材の売場に当てます。ウィンドウ3・1が92年に販売されてパソコンが普及し始めたころ、家電量販店業界ではまだパソコンに詳しい人材は少なく、パソコンは秋葉原などの専門店で一部の人が購入する特殊な商材だと思われていました。しかしヤマダ電機は90年初めからパソコンの開発・販売に乗り出し、自前で人材を育成していました。それによりパソコン売場を軌道に乗せることが出来たのです。

他社が大型店の出店を躊躇したり、パソコンの需要の拡大を読み切れなかったりしている中、ヤマダ電機は時代を読み、先を見て動いていたため、業績を伸ばすことが出来ました。ヤマダ電機の現在の地位は、環境変化を読み取る能力が、その後の成長につながっていくという事例だと思われます。

(参考文献 日本優秀小売企業の底力)

セブン‐イレブンの小売事業システム

本日はセブン‐イレブンの小売事業システムに関して記載します。

セブン‐イレブンはファーストフードや惣菜に強い日本型のコンビニを生み出しましたが、それを支えるシステム面においても革新的な取り組みを行ってきました。そのシステムを以下3つの視点で見てみます。

【組織設計】

セブン‐イレブンのフランチャイズ組織の柱となったものとして“粗利益分配システム”があります。フランチャイズチェーンにおいて、本部が加盟店から徴収するロイヤルティ(看板料や経営指導料の総称)の設定方法として、売上げ歩合方式が一般的でした。この方式は、加盟店にたとえ利益が出ていなかったとしても、売上高に応じたロイヤルティを本部に支払う必要のあるものです。それに対して粗利益分配方式は、加盟店の粗利益額に応じてロイヤルティを設定する方式です。この仕組みだと、本部も自社の収益を増やすためには、店の利益を増やす必要があり、本部と加盟店が同じ目標に向けて協業するという関係が成立しやすくなります。本部は各店の売上高や仕入れ状況などを把握することによって、加盟店に対して様々な経営指導や販促協力を行い、加盟店は地域情報に根ざしたきめの細かい在庫管理を行うという、共栄共存の関係が構築されていったのです。

【情報システム】

コンビニという狭い売場面積で生産性を最大限高めていくには、商品回転率を高める「単品管理」による廃棄ロス・機会ロスの最小化を図ることが必要で、そのために同社は常に情報システムに対して積極的に投資を行ってきました。単品管理とは、これ以上細分化できない単位で商品の販売動向を把握し、在庫管理を行っていくことで、POSレジの普及とともに実行が用意となってきました。単品管理は単品ベースの販売動向分析に基づき、それぞれの店舗に適切な在庫の補充を行うための商品発注と、商品の取り扱いの有無を決定する品揃えが中心的な課業となります。同社は単品管理には大規模な情報システムの構築が必要だと考え、1982年に全店にPOSレジを導入(ローソンが90年7月、ファミリーマートが90年6月に同システムを導入)。死に筋の排除と売れ筋となる可能性のある新製品の投入を徹底的に進めるとともに、欠品による機会ロスの減少により、業績を急速に改善させていきます。90年には検品スキャナーST(スキャナー・ターミナル)を導入。店に納品される商品をSTでスキャンし、検品作業を簡素化かつ精度も向上させます。そして、91年にはISDN回線、97年からは衛星回線、06年からは光ファイバー通信網の整備、と同社の情報システムの強化を図ってきました。

【物流システム】

セブン‐イレブン誕生当時の小売業界では、卸からメーカーケース単位で店舗に納品されるのが普通でしたが、そのような物流をそのまま店舗面積の小さいコンビニに持ち込むと、店のバックヤードがすぐに在庫であふれ、店頭は過剰在庫の状態に陥りやすくなってしまいます。コンビニには、納品頻度が高く、納品単位が小さく、精度の高い物流サービスが必要でした。同社は1976年に物流改革プロジェクトを立ち上げ、3つのことに取り組みます。まず、一つ目は一定の配送地域にまとまった数の店舗を設け(ドミナント戦略)、配送量を拡大するということです。そして、二つ目は各店に商品を供給するベンダー(製品の供給業者)数を集約し、ベンダー1社当たりの配送規模を拡大するということです。食品から雑貨まで幅広いカテゴリーの商品を品揃えするコンビニは、小さな店舗であるにも関わらず、取引先が多くなっていました。そこで、作業効率のためにベンダーを絞り込む必要がありました。最後に3つ目は、複数メーカーの商品をトラックに混載する共同配送を採用することです。これにより配送及び店内の荷受け作業の合理化を図りました。

セブン‐イレブンは慣習に囚われずに業務改善を進めてきたことによって、力強い同社の仕組みを作ってきたように思われます。時代が変わってもそのことは重要なのでしょう。

(参考文献 日本の優秀小売企業の底力)

ヨークベニマルの従業員全員参加型の店舗運営

本日はヨークベニマルの従業員全員参加型の店舗運営に関して記載します。

ヨークベニマルは福島県郡山市に本部を構える企業で、セブン&アイ・ホールディングスの食品スーパー事業の中核企業です(2006年9月に完全子会社化しました)。ヨークベニマルは1990年代半ばから大店法が大幅に緩和され、ジャスコやマイカルが東北地方への大型ショッピングセンターの出店を加速するなどにより、競合環境が激化してきたことに対し危機感を募らせ、総合スーパーを目指していた方向性から、食品スーパー事業へ経営資源を集中させていきました。そして経営の効率化を図るべくドミナント戦略を徹底していきます。

食料品スーパーの売上高は、時間経過に伴う品質劣化の大きい、青果、鮮魚、精肉の生鮮食品で約3割占め、それに惣菜を加えると4割を占めます。また、パンや豆腐と言った、原則入荷同日に売り切ることが必要な日配品の売上高は約2割となっています(「スーパーマーケット販売統計調査(2011年1月実績確報版)」より)。これら生鮮3品、惣菜、日配品といった商品は、迅速に需給調整を行う必要があります。ですので、販売動向や天候、競合店の状況を見ながら、売場づくりを行い、鮮度の良い商品を提供し、かつ値下げロスや廃棄ロスを少なくしていくことが求められます。

その様な前提がある中で、ヨークベニマルはパートタイマーも加わった全員参加型の店舗運営を行っています。食品スーパーは1日の中でも時間帯によって、朝は年配者、昼は主婦層、夕方は独身者、といったように客層が異なり、時間帯によって売場を変える必要がありますし、天候の変化や商品の売上が伸びない場合は店内広告を行ったり、陳列方法を変えたり、値下げを行ったりしていかなければなりません。そのためにはパートタイマーの協力が不可欠となってくるのです。ヨークベニマルはパートタイマー比率が同業他社の64.6%に対し、84.7%とその割合が大きくなっています。よってパートタイマーも含めた全員参加型の店舗運営が非常に重要なポイントとなります。そのため、人事制度による目標設定によってモチベーションが上がるように工夫を凝らしているようです。

また、興味深い取り組みとして同社の単品管理に関する取り組みがあります。従来、全員一律の基準を単品管理に設定し運用していましたが、その際、社員やパートタイマーの退職者が増えたそうです。原因は自分の裁量でやれなければ面白くないという点にあったようなのですが、そこから同社は、各人が前向きに取り組んだ単品管理では、それがたとえ失敗しても容認し、従業員が単品管理に自主的に取り組む姿勢を植え付けていこうとしたそうです。

ヨークベニマルはパートタイマーがチームを組み、職場の改善運動も行っています。単品管理やチームを組み改善活動を行うことを通じて、従業員が日々の仕事の意味を理解し、仕事を工夫する面白さを経験することで、日常の業務を主体的に取り組めるように組織の体制を整えているのです。各従業員が主体的に仕事に取り組める環境を作ることは、組織の活力につながります。それを達成するために経営の方向性と取り組み内容が一つの鍵になると言えそうです。

(参考文献:日本の優秀小売企業の底力)

商店街の活性化を阻害する要因

本日は商店街の活性化を阻害する要因に関して記載します。

商店街に来店客を増やし、自らの店舗の売上を拡大するために、商店街が組合を組織して事業を行い、商店街の活性化を目指すわけですが、活性化の成果が必ずしも個人商店の業績にいい影響を与えるとは限らないといいます。行政からの補助金と自らの資金と労力を投入し活性化を図っているにも関わらず、自店舗の業績が改善するどころか、既存顧客を失い、業績が悪化することがあると言います。

そのような中、まず商店街の活性化に成功している事例を見てみます。

【商店街活性化成功の事例】

(1)近隣型商店街や一部の地域商店街が観光地として再生した事例

・小江戸のイメージで街並みを整備した埼玉県川越市

・「黒壁」と呼ばれる銀行の建物を保存しガラス館として活用した滋賀県長浜市の商店街

・昭和の町として定着している大分県豊後高田市の商店街”

(2)高齢化社会を踏まえ、高齢者をターゲットとした商店街づくり

・「おばあちゃんの原宿」で知られる東京都豊島区の巣鴨地蔵通り商店街

これらの成功事例の一方で以下のような弊害もあります。

【上記の活性化に伴って生じる弊害】

(1)日常の生活で売れる商品と、観光客に売れる商品は違う

・商店街が観光地化した場合、積極的に観光客向けに商売を転換した店は生き残れますが、旧来通りの商売を続ける店は商売に行き詰ります。つまり地元向けの商売を続けたい店舗にとっては、商店街の観光地化はデメリットにつながるのです。

(2)若い人を対象としてきた商店は商売を続けることができなくなる

・もともと高齢者向け商品を扱っている店や高齢者向けの商品にシフトする店は問題ないのですが、若い人を対象にしていた場合は商売の継続が難しくなります。

商店街の変化の方向性が、自分のやりたい商売の方向性とズレが発生してしまった場合、その商店街での商売を放棄しなければならなくなります。商店街の活性化は、活性化の方向性にあった一部の店舗にしかメリットを生み出しません。そのため、多くの店に共通してメリットをもたらそうとすると、基本的な環境はそのままで、今より少しだけ来客が増える程度の、無難な活性化策が選ばれることになるのです。

上記に加え、商店街の活性化に伴う、店舗の賃料の上昇というリスクも存在します。商店街が過度に活性化すれば、そのエリアの資産価値が上がり、店舗の賃料が上がり、商売をする側からすると経費の増につながるわけです。

以上のようなことから、商店街の抜本的な活性化につながるような動きが出にくいということがあるようです。商店街が衰退していくのは近隣の大型SCの影響であったり、商店街側のやる気の問題であったりと言われることもありますが、実際のところ、商店街の活性化に向けたハードルというのは、外側から見ている以上に難しいものがあるのかもしれません。

(参考文献 なぜ繁栄している商店街は1%しかないのか)

北のツルハ 南のコスモス

本日はドラッグストア、北のツルハホールディングスと南のコスモス薬品の戦略に関して記載します。

ドラッグストア業界は2012年度に業界売上高が6兆円規模にまで成長してきています。その中で売上高3000億円を超える大手企業は7社。さらにその中で首都圏を地盤とするマツモトキヨシホールディングスとサンドラッグが売上高4000億円を超えて1位・2位。その後を、3番手グループが140億円ほどの差でひしめき合っています。

その3番手グループの争いから抜け出そうとしているドラッグストアが2社。ツルハホールディングス(本社:北海道)とコスモス薬品(本社:福岡)です。この2社はそれぞれ特徴のある経営戦略をとっていて、成長著しく、有価証券報告書で平成21年と平成25年の売上比を見てみると、ツルハホールディングスは約36%増、コスモス薬品は約85%増という結果になっています。それぞれの戦い方の特徴に関しては以下のようになっています。

【ツルハホールディングス】

ツルハホールディングスの特徴の一つ目としてM&Aによる規模の拡大が挙げられます。2006年には千葉県と東京都東部に強固な地盤を持つ、くすりの福太郎の筆頭株主になり、翌年、完全子会社としています。ドラッグストア各社の今期の業績が予想通りにいけばコスモス薬品が業界3位になる見通しでしたが、ツルハホールディングスが11月下旬に山陽地方で売上高500億円規模のハーティウォンツの買収を発表。それにより一気に4000億円企業の仲間入りを果たしています。もう一つの特徴、強みとしてPBがあります。PBアイテム数は約2200(同業他社との共同開発品を一部含む)に上がり、売上高に占める比率は11.6%と業界1位。PBによる高い利益率を誇っています。なお、平成25年の経常利益の額を見てみると業界1位のマツモトキヨシホールディングスの216億円を超える238億円となっています。

【コスモス薬品】

九州から中四国、関西へと勢力圏を拡大してきている企業です。大手各社のM&A競争とは距離を置いており、大型店をドミナント化させる戦略が特徴と言えます。1000~2000平方メートルという一般的なドラッグストアの倍以上の大型店を1万人に1店舗の割合で出店。それにより物流費や販売促進費などのコストを削減。合わせてエリア内の販売シェアを高めて、仕入れ先から有利な条件を引き出し、商品原価率を高めています。

両社ともに成長を遂げている企業ですが、ツルハホールディングスのPB、コスモス薬品の大型店を高密度に出店するという双方の戦略は、各々の企業の持つ強みであると思います。企業の強みを活かすということは企業の成長に重要な役割を果たすということだと感じます。

(参考文献 週刊ダイヤモンド 2013 12/7)