マクドナルドの日本オープンに関して

本日はマクドナルド、日本オープン時の話について記載します。

【1971年 銀座三越にマクドナルド1号店オープン】

日本で最初にマクドナルドのフランチャイズを運営した藤田田はもともと輸入業を営んでいました。輸入していた内容は女性用のアクセサリー等でしたが、輸入業を営む中で、藤田はマクドナルド社が国際化に関心を持っていることを知ります。当時、マクドナルド社の基本的な方針は、個人に限り1店舗のみフランチャイズ権を認めるものでしたが、藤田はマクドナルド社に対して“日本で複数のフランチャイズ店を出店すること”と“店舗運営において自由裁量権を認めること”を説得します。

また、マクドナルド社のアナリストがアメリカでの成功例を挙げ、日本でも郊外に出店することをすすめていましたが、藤田はそのアドバイスには従わず、銀座三越にオープンすることにします。銀座三越は藤田が取り扱っていた女性用のアクセサリーを購入していた顧客であったことから、そのコネが利用できたのです。

銀座三越での店舗スペースは通常のマクドナルドの1/5でしたが、藤田はキッチンをコンパクトに設定し、座席の代わりにカウンターを用意しました。その様な店舗スペースになった理由は、三越が顧客に不便さを感じさせるような、店の改装を望まなかったためです。

三越の定休日は月曜日なので、藤田は日曜日の午後6時から火曜日の午前9時までという、39時間の間に店舗の改装をしなければなりませんでした(通常のマクドナルドの店舗の建築には3ヶ月かかる)。このミッションをクリアするために、藤田は東京郊外にある倉庫で、作業員たちに39時間以内で店舗を組み立てられることができるようにするため、練習をさせます。これにより短時間での店舗建設に成功。そして、銀座三越のマクドナルド1号店の売上も上々で、開店から1ヶ月で4000万円の売上を上げ、開店時の開店費用の3000万円を回収することができました。

藤田は第1号店をオープンした3日後、新宿に次の店をオープン。更にその翌日に第3号店をオープン。全ての店舗が大成功を収め、18か月後には日本全国に19店舗のマクドナルドを持つこととなります。

【マクドナルド 多様な国にランダムに拡張するフランチャイズ】

当時、マクドナルド社は日本への店舗展開には興味がなかったと言います。藤田田がマクドナルド社を説得したことで、日本への参入が決定したのです。

マクドナルドはフランチャイズを採用しているわけですが、そもそも、フランチャイズとは“ある企業名の下でビジネスを遂行する権利”のことを言います。そしてフランチャイズには「ダイレクト」と「マスター」2つの類型があり、ダイレクト・フランチャイズは個別店舗のオーナーに与えられるもので、マスター・フランチャイズは、フランチャイズ権が与えられた個人が特定の地域や国で一括して店舗展開が行える権利を持つという制度となります。藤田田は後者の方となるわけです。

マスター・フランチャイザーにとっては、どの国に参入するのが最善であるのかを見分けるよりも、藤田田のような、フランチャイズのネットワークを拡大できる人物を識別することの方が重要となります。ですので、マスター・フランチャイザーでの拡張パターンは、文化的に近い国から順次参入していくというものではなく、多様な国へランダムに拡張していくパターンとなるのです。

【消費者に受け入れてもらうための日本流アレンジとマクドナルド参入による消費スタイルの変化】

藤田田はファストフードというコンセプトを最も受け入れやすい層は若者だと確信し、広告の焦点を子どもと若い家族に向けて絞り込みました。藤田は「日本の年配世代の食習慣はとても保守的である。しかし、子ども達には、ハンバーガーは美味しいものだと学習させることができると思った」と語っています。

また、藤田は日本マクドナルドの成功に向け、マーケティング戦略に自分なりの修正を加えました。例えば、「McDonald」という名前が日本人には発音しにくいと考えて「マクドナルド」に変え、シンボルの「Ronald McDonald」も「ドナルド・マクドナルド」とアレンジしました。このように、日本の消費者が適応するように、マクドナルド社のものをそのまま使用するのではなく、修正を加えたのです。

マクドナルドの日本参入は日本人の消費スタイルを変えていくことともなりました。従来までは弁当を購入していた日本の若者が、ファストフードを選ぶようになっていったのです。

海外から企業が市場へ参入してきた際、その国の消費スタイルに合わずに撤退していくこともあれば、その国の消費スタイルが変化していくことがあります。マクドナルドは後者だということが言えます。

マクドナルド1号店が銀座三越ということを知らなかったので、「百貨店にファストフード」という、そのギャップには驚きました。

(参考文献 変わる世界の小売業)

ボーイング 新たな成長

本日はボーイング、現状維持からの脱却による新たな成長に関して記載します。

【民間航空機 ピストン・エンジンの時代】

ボーイングは今では民間の航空機業界で支配的なメーカーの一つになっていますが、第二次世界大戦の数年後までは主に軍用機を作るメーカーで、ジェット機技術で卓越した存在でしたが、民間の航空機で力を持っているわけではありませんでした。

また、1950年代半ば、民間の航空路を往来していたのは、低空で騒音をまき散らしながらピストン・エンジンでゆっくり進む、乗り心地の悪い機体ばかりではあったものの、民間のジェット機に将来性があるとは考えられていませんでした。

当時は冷戦が拡大しており、アメリカやその同盟国から爆撃機や給油機が必要とされていましたので、ボーイングが敢えて民間の航空機の分野に手を伸ばすという選択をする必要もなかったとも言えます。

【ボーイングの挑戦】

しかしながら、1952年、ボーイングは単一の製品で民間機市場に打って出るという社運を賭けた行動を行います。後に「707」へとつながる新機種開発へ1600万ドルの投資を行うことを決定したのです。707の開発計画を実施するに当たって、明らかな勝算があったわけではなかったと言います。当時はジェット機の需要があったわけではありませんでしたので、買ってくれる顧客がいるに違いないという確信に賭けていただけだったのです。そのため、ボーイングは新聞・雑誌や放送メディアで「フランス語に磨きをかけにいくのに7時間しかかかりません」といった印象的なコピーを打つなどし、ジェット機の安全性・快適性・スピードをアピールして、人々にボーイングの航空機を選んでもらえるような試みも行いました。そして1958年10月26日、旅客を乗せた707はニューヨーク・パリ間の初飛行を無事成功。それにより、現在に至る、民間航空の新たな時代が幕を開けることになったのです。

【現状からの脱却の重要性】

スティーブ・ジョブズがiPodやiPhoneを作りイノベーションを起こしたように、ボーイングも707で当時の航空業界の歴史を変えたのです。軍用機で評価を受けていたボーイングにとって、そのまま現状を維持することもできたのですが、そうはしなかったために新たな成長を遂げることが出来ました。現状の枠組みを超えて革新を起こす勇気が新たな成長につながることが、ボーイングの例からも分かります。

(参考文献 ありえない決断)

IBMのベアハッグ作戦

本日はIBMのベアハッグ作戦に関して記載します。

【ベアハッグ作戦とは】

1990年代初め、IBMの得意とするメインフレーム(企業の基幹業務などに利用される大規模なコンピュータのこと)からパーソナル・コンピュータが主役になる動きの中で、赤字が続き、市場シェアを失いつつありました。その様な中、1993年、IBMのCEOにルイス・V・ガースナーが就任。そして彼は後に「ベアハッグ作戦」と呼ばれる施策の実施を行いました。この作戦はまずガースナーが50名のトップ幹部たちを集めたミーティングを実施し、3カ月かけて一人一人が最低5社の大口顧客を訪問するように求めました。彼は幹部たちに、顧客の話を聞き、顧客に心からの愛着を持っていることを態度で示すように求めました。場合によっては、実際に相手を抱きしめても良いとまで言っていました。そして、彼は幹部たちに顧客の話を聞いて気づいたことを直接報告するように求めたのです。

【ベアハッグ作戦による効果】

1960年代のIBMは顧客サービスがとても優れていたようですが、時代の流れとともに、ガースナーがCEOに就任したころには内紛の起きる政治的で官僚的な組織となり、顧客志向が不足するようになっていたようです。その様な状況だったので、ガースナーが聞き取り調査をした顧客たちはIBMへの不満をひどく募らせていたそうです。

ガースナーは、この顧客から聞き取った話をもとに、メインフレーム・コンピュータの価格を下げ、会社が所有していた高価な美術コレクションを含む生産性の低い資産を売却します。また、当時IBMは組織の分社化の動きがありましたが、メインフレーム、パーソナル・コンピュータ、ディスクドライブ、半導体といったコンピュータの様々な知見が同社に蓄積されているということを踏まえ、分社化を行わない決断を下します。併せて、当時IBMの事業の中であまり重視されていなかったコンサルティング部門に力を入れるようになっていったのです。

ガースナーが実施した「ベアハッグ作戦」によって、“IBMが顧客重視という基本に立ち返る”という目標を達成することが出来ました。また、コンピュータ業界の門外漢であったガースナーが、市場についての生の知識得て、ビジネスの勘所を押さえることが出来るようにもなりました。

IBMは顧客に焦点を絞り込むことによって、今日もなお、革新的な仕組みの導入に成功していると言います。

「ベアハッグ作戦」は失われつつあった顧客視点を取り戻した経営判断だったと言えます。ガースナーはCEOになった際、コンピュータ業界についての詳しい知識は持っていませんでしたが、政治的・官僚的な組織になってしまってきていることを感じ取って、改革すべき勘所を押さえて、改善策を実施したのでしょう。大きな組織が常に顧客視点を持ち続けるにはどうしたら良いのか、IBMの「ベアハッグ作戦」は示唆に富んでいるように感じます。

(参考文献 ありえない決断)

ビル・ゲイツのシンク・ウィーク

本日はビル・ゲイツの「シンク・ウィーク(考察週間)」に関して記載します。

【時代の先端を行き成長するための手法 「シンク・ウィーク」とは?】

ビル・ゲイツはマイクロソフトの経営者の時に「シンク・ウィーク(考察週間)」というものを設けていました。シンク・ウィークとは1992年から2008年にかけて、ビル・ゲイツが実施していたもので、彼は大量の企画書を持って、太平洋北西部に休みを取って、1週間引きこもっていました。その際、ただ休んでいるわけではなく、スタッフや家族と離れ、社会との関係性を断つことで、会社の未来にとって重要な問題を深く掘り下げ、会社の今後の戦略を再調整していたのです。

シンク・ウィークのアイデアはビル・ゲイツ一人の発想でした。この時間は娯楽に使うわけではなく全て仕事に使われます。このシンク・ウィークの期間、論文・資料を読み、眠り、食べること以外、何もしなかったようです。食事はキッチン・スタッフが届けてくれるようにして、書斎に冷蔵庫も用意。徹底的に思考に時間を費やす工夫をしていました。

この期間にビル・ゲイツは、ゲーム・映画・コミュニケーションなど様々なエンターテイメントが楽しめるオンラインサービス「エックスボックス・ライブ」構想にゴーサインを出したり、1995年に広告収入ベースの無料コンテンツが勝利することやユーザーがインターネット上でつながりたい人やサービスの名前を見つけられるようになることを予言した有名な内部文書「インターネットの潮流」を書きはじめたりしています。

マイクロソフトにおいても、多くの企業同様、重要な製品はチームワークから生み出されていましたが、会社のコアな部分はビル・ゲイツが握っていました。だからこそ、ビル・ゲイツ本人が、多忙な中、マイクロソフトの未来について沈思黙考し、構想を練る時間を作ることが重要だったのです。そのために、シンク・ウィークが設定されていました。

【シンク・ウィークによる社員のモチベーションアップ】

マイクロソフトのある幹部が「ウォール・ストリート・ジャーナル」の記事において、シンク・ウィークを「世界でいちばんクールな提案書」と評しています。ビル・ゲイツがシンク・ウィーク期間中に、社員自らが書いた論文に目を通し、その論文の提案内容に目をとどめてくれれば、その社員のキャリアにとって最大の転機にもつながります。つまり、シンク・ウィークの設定が社員の士気を向上する効果も持っていたのです。

徹底的に自らを振り返り将来の方向性を設定するということは非常に重要なのでしょう。休日に、娯楽に興じるのではなく、そういった時間に充てるということは大切なようです。

(参考文献 ありえない決断)

ジョンソン・エンド・ジョンソンCEOバークの危機管理

本日はジョンソン・エンド・ジョンソンCEOバークの危機管理に関して記載します。

【鎮痛剤に青酸カリ】

1982年9月30日、薬局で市販されていたジョンソン・エンド・ジョンソンの鎮痛剤「エクストラ・ストレングス・タイレノール」のカプセルに、何者かが致死量の青酸カリを混入。結果、シカゴに住む7名が死亡しました。これは、毒物が混入した錠剤の製品ロットがどれもバラバラで、犠牲者がシカゴ周辺に集中しているということから、製造過程に問題があったのではなく、誰かがタイレノールのボトルに異物を混入して、店の棚に置いたのだということが判明したのです。当時、タイレノールはジョンソン・エンド・ジョンソンの大人気商品であり、市場シェアの35%を占める、全米No.1の売上を誇る鎮痛剤でした。それだけに、この事件は同社にとって衝撃が大きかったと想定されます。

【CEOジェームズ・E・バークの決断】

(1)小売史上最大のリコール

この事件を受け、ジョンソン・エンド・ジョンソンのCEO、ジェームズ・E・バークは、その翌日に全国規模のリコールの検討を始めます。これに対して一部の幹部が反対しただけのみならず、FBIの職員たちまでもパニックを誘発することを恐れ、リコールに反対したそうです。しかしながら、その後、この事件の模倣犯が現れたことにより(カリフォルニア州でタイレノールのカプセルにストリキニーネ(毒薬)が混入された)、反対の声は消えていきます。そして、ジョンソン・エンド・ジョンソンは3100万本のタイレノールの「エクストラ・ストレングス」を全国の販売店から回収することを発表。小売史上最大のリコールが行われたのです。

(2)新パッケージの開発

また、バークは不正開封防止のパッケージの設計を命じます。それにより、三層密閉方式のパッケージが生まれました(キャップの内部にアルミホイルを挟み、キャップの上からシュリンク・スリーブをつけて密閉し、さらに糊付けされた外装箱の中に入れる方式)。この時開発されたパッケージは、今日においても多くのアメリカの内科医や薬剤師から支持を集めているそうです。

(3)巻き返し作戦

11月、ジョンソン・エンド・ジョンソンはパッケージを一新したタイレノールの復活キャンペーンを立ち上げます。併せて、消費者が捨てたタイレノールを無償交換することを発表し、「タイレノール」シリーズのどの商品でも買える、2.5ドル相当の4000万枚のクーポンも発行。更にバークは、当時としては珍しかった衛星中継によるビデオ記者会見を開き、全米30都市の記者からの質問に答えました。このキャンペーンが奏功し、事件後7%程度まで落ち込んでいた市場シェアは、事件後1年で30%まで回復したのです。

【バークのクレド(信条)】

バークは会社のクレド(信条)、“リーダーはジョンソン・エンド・ジョンソンの製品とサービスを利用する人々に対する責任を第一に考えなければならない”ということを信じ、実践したのです。この時のバークの対応「危機に際しては、まず自分の知っていることを全て速やかに洗い出し、顧客を守るためにあらゆる手段をこうじるべし」という対応は、危機管理の手本となっています。

様々な場面で危機管理案件がニュースで話題になりますが、その解決に向けた舵取りは、様々な既得権益と絡み合い、道筋のつけ方が非常に難しいのだろうと思います。しかしながら一方で、バークの危機管理もいろいろなところで根付いているようにも感じます。何につけても消費者を優先し対応するということは忘れてはならないということでしょう。

(参考文献 ありえない決断)

ヘンリー・フォードの賃金倍増戦略

本日はヘンリー・フォードの賃金倍増戦略に関して記載します。

【ヘンリー・フォードとは】

ヘンリー・フォードはアメリカの自動車会社フォード・モーターの創設者で、アメリカの多くの中流階級の人々が購入できる初の自動車を開発生産しました。T型フォードは世界で1500万台以上も生産されるヒット商品となり、ヘンリー・フォード自身も世界有数の富豪となり有名になりました。

【ヘンリー・フォードの賃金倍増戦略】

そのヘンリー・フォードは、1914年、従業員の賃金を日給2ドル50セントから5ドルに引き上げるという戦略を採りました。当時、労働者は怠け者だから賃金をできるだけ安くしておくべきという考え方が常識だったので、この戦略は世間を驚かせたと言います。背景としては、T型フォードの人気がうなぎ上りの中、従業員の数はそのままにもかかわらず、生産台数を倍にするという対策を採っていたために、従業員の離職率が異常なペースで上がっていたことです。フォードの労働者たちは1日9時間、週6日間、必要最低限の生活賃金、口汚い管理者という条件に苛立っていました。その中で労働者達は欠勤と離職で不満を表すこととなります。欠勤する従業員は毎日、全体の10%、年間の離職率は370%にも達していたのです。その状況を打開すべく、フォードは賃金を倍増。また、労働時間を9時間から8時間へ短縮。1日の勤務体制がそれまで2交代制だったものを3交代制に変更しました。

この結果、年間の離職率は1年もしないうちに16%に減少、生産性は40%から70%に上昇、1914年から16年にかけてフォードの利益は3000万ドルから6000万ドルへ倍増しました。フォードは後に「1日8時間の労働に対して日給5ドルを支払うことは、われわれがこれまで実施したコスト削減戦略の中でも最良の策の一つだった」と述べています。

【現在にも通じるヘンリー・フォードの考え】

フォードとサミュエル・クラウザーの共著「My Life and Work」の中で、フォードは「高い賃金を分配できれば、今度はその金が消費され、商店経営者や卸業者、製造業者や他の分野で働いている労働者たちを豊かにする。そして彼らの繁栄がわれわれの売上に反映される。全国規模で賃金が高くなることは、全国規模の繁栄を意味する」と述べています。現在ではニュー・ケインジアンが、高い賃金が自ずと消費者需要を生み、多少のインフレも悪いことではないと主張しているようです。

アップルが中国工場において3年間で賃金を倍増したことにより、優秀な従業員を引き寄せ、競争力をつけたとも言われています。

日本においては現在、アベノミクスでの賃金上昇が話題となることがありますが、どのような考え方を持って賃金設定を行っていくのか、各企業にとってはそのことが重要なことのように思われます。

(参考文献 ありえない決断)

ニトリの事業モデル「製造・物流・小売業」に関して

本日はニトリの事業モデル「製造・物流・小売業」に関して記載します。

ニトリホールディングスは、2000年2月期には売上高489億2200万円・店舗数50店舗でしたが、2011年2月期には売上高3142億9100万円・国内店舗数237店舗と成長を遂げた家具専門店業界のトップを走る企業です。ニトリは近年、自社の事業モデルを「製造・物流・小売業」と表現していますが、そのことに関しては以下のような背景を受けてのものとなります。

【小売業】

ニトリはホーム・ファニシング・ストア(HFS)という、家具、カーテン、カーペット、家庭用品など住生活を構成する商品を幅広く品揃えし、顧客が自己の好みに応じて各部屋の色・柄・素材・サイズ・イメージをトータルコーディネートできる機能を提供する、新しい小売業態を展開しています。同社はアメリカの小売業界の動向から、伝統的な家具店からHFSへ業態転換することを決めたのですが、そのことにより既存の家具店やホームセンターとの直接的な競争を回避する好結果を生み出せました。

【製造】

HFSから更なる経営の進化は「安さ」の追求から生まれました。仕入先である問屋だけでは価格の引き下げは容易に実現できなかったことから、各地の家具産地を訪問し、メーカーの開拓に全力を上げます。しかし、産地との取引拡大にも商品原価引下げには限界がありました。人件費の高い日本で手工業的な体質の家具メーカーの費用削減努力は限界に達していました。なおかつ桐ダンスなど伝統的な家具の需要の減退に直面した産地メーカーの経営は急速に悪化していました。そのような状況下、1980年代半ば、取引先の旭川の高級家具メーカー・卸のマルミツが経営不振となります。それを機にニトリはマルミツと業務提携。2000年8月に完全子会社化。マルミツは家具製造と海外生産に関する深い知識と多様な経験を持っていました。それを活かし、ニトリとマルミツは協力し、海外工場の稼働による低価格で商品を提供することを実現します。ニトリの海外輸入商品の対売上高比率は1989年2月期の3%弱から、2011年同期には約80%に急増します。海外の工場では、熟練の家具職人がノミやカンナを使って作っていた工程を分け、それぞれの工程を標準化された単純作業に分解し、誰でも早期に仕事を覚えられるようにしました。そして単純な労働作業により、品質にバラツキのない部品をつくり、組み立てられるようにしていったのです。

【物流】

商品在庫型の中核物流センターが札幌、埼玉、横浜、神戸、福岡の5か所に配置され、各店舗への納品、及び購入した顧客に商品を届ける各地区の配送センターへ(2009年1月現在74か所)の納品を担当しています。物流網の整備をすることで、各店舗に対する在庫補給と顧客が購入した商品の宅配サービスを円滑に進められるようにしています。各物流センターは自社開発商品をはじめとした直輸入品の集荷機能も担っています。その受け入れコンテナ数は年間7万4000個。単独企業では日本最大級の規模となっています。

また、2007年5月に広東省に建物面積5万3000平方メートルの物流センター、2008年に上海に9万8400平方メートルの大規模物流センターを開設し、中国国内にある多数の協力工場の商品を集荷し、日本の物流センターへ一括の混載出荷体制を整えました。日本の小売業界全体を見渡しても、このような物流システムを持つ企業は見当たらないと言います。

独自の商品展開、低価格路線、効率的な物流網の整備、その3つが連携し、家具専門店業界売上ナンバーワンの地位を支えているようです。大きな売上を作っていく(顧客から支持されるサービスを提供できるようにする)には、しっかりとした仕組みを作り上げていくことが重要そうです。

(参考文献 日本の優秀小売企業の底力)

戦略PR

本日は戦略PRに関して記載します。

戦略PRとは、販売する商品そのものにフォーカスしてPRするのではなく、世の中の時流と商品をつなぐテーマを開発し、そこから話題を喚起し、世論を作り出す「空気づくり」を行い、その盛り上がりを受けて商品の販売に落とし込んでいく手法のことを言います。

戦略PRはこの手法が先行するアメリカにおいて、ビジネス分野はもちろんのこと、オバマ大統領の選挙戦にも使われるほど普及しているといいます。このような手法が使われるようになってきた背景には、「インターネットの普及により情報量が今までの比にならないほど増大し、消費者は毎日のようにマーケティングメッセージを受け取るようになっている」「製品クオリティーや価格をアピールするだけでは購買意欲を刺激することが難しくなっている」「インターネットやソーシャルメディアの普及により情報の入手経路が多数化する中で、友達の口コミに対する信頼度の増加」といったものがあるようです。

あるおむつメーカーは戦略PRを活用し売上を伸ばしたといいます。そのおむつメーカーはブランドの認知度は100%に近くTVCMでブランドを訴求するという戦略をとることにそれほどの効果性があるというわけでもない状態でした。また市場において商品はコモディティ化し厳しい価格競争の只中にありました。そこでメーカーは「赤ちゃんの睡眠」の話題を提起し「快適な睡眠環境を提供するおむつ」の購買に結び付けることに決定。小児睡眠の専門家と協力し「赤ちゃんの睡眠」に関する国際調査を実施します。そして「50%近くが夜10時以降まで起きている」など、日本の赤ちゃんには問題があるというデータを整備し報道発表を行いました。これにより、マスコミの報道、ソーシャルメディアでの口コミにより情報が拡散。「赤ちゃんの睡眠が問題である」という空気が、2か月ほどで醸成されていきました。そのタイミングでメーカーは「あなたの赤ちゃんの睡眠を考えたブランドです」というメッセージで広告と店頭施策を実施し、売上を向上させました。

この戦略PRで重要なことはテーマの設定になります。おむつの例では「赤ちゃんの睡眠」がそれに当たります。このテーマが“商品の便益”“世の中の関心事”“消費者の関心事とメリット”が結び付いていることが必要となります。日本における戦略PRの成功事例では「ハイボール流行の兆し」「生姜ブーム」「夫婦円満には食洗器」といったものがあるようです。

情報過多や商品のコモディティ化などにより、商品そのものに魅力を感じさせることが難しくなっている時代だと思います。そのような中で戦略PRという世の中の世論作りから行って商品の販売に結びつけていく手法が登場してきているということでしょう。商品を販売するということにおいても、新たな時代が来ているのかもしれません。

(参考文献 最新マーケティングの教科書)

ゼンリンのイノベーション

本日はゼンリンのイノベーションに関して記載します。

 現在、新聞や雑誌など日本のメディアは大きな岐路に立たされていると言います。

 近年、書籍や新聞紙の価格設定が紙を基準としたものから、ネット上のコンテンツや電子ブックの登場で形のないものとなってきています。例えばアマゾンの「Kindle」や楽天の「kobo」といった電子書籍が登場しており、楽天では2020年の電子書籍コンテンツ市場を1兆円と想定しているようで、今後ますます発展してくることが想定されます。僕自身のことを振り返ってみても本棚を必要としないことから電子書籍の購入が徐々に増えています。

また、現在、コンテンツの無料化が進んできています。情報にお金を出す人が減少し、売上・収益が減少してきているのです。

既存のメディアや出版社各社が時代の変化の中で今後の経営を模索する中、国内最大手の地図情報会社「ゼンリン」はいち早く自社の情報をデジタル化させて事業構造を転換させました。同社は1982年にコンピュータ時代の到来を確信し地図の電子化を決断。それまで地図の製作は毎年、人の手で書き換えられていましたが、住宅地図の制作自動化システムや情報利用システムの開発を進めていきます。そのごヤマト運輸の宅急便が誕生したことにより、荷物の送り先の確認用に地図が必要となり、市場は急速に拡大していきます。その時期にゼンリンは地図データをCD化し、何冊もの住宅地図を持たなくても良いようにします。その後、GPSが民間に開放されカーナビの運用が始まると、同社はカーナビを製造するメーカーにデジタルデータを提供し、データを使用した企業から利用料を徴収するビジネスモデルに着手。さらにネット上で地図情報が提供されるようになると、プロバイダーに地図のデジタルデータを提供するというビジネスモデルに進化していきます。

 従来は地図を利用する人が地図を購入し同社の利益となっていましたが、ITの進化に伴い、地図情報を提供するカーナビのメーカーやネットのプロバイダーが利用料金を払うことによって利益を得られる形が現れました。この時代の変化の流れを読み、ゼンリンは出版社からコンテンツとサービスを提供する企業に業態が変化していきます。

 地図業界はゼンリンと昭文社が市場を二分しているようですが、上記のような電子地図関連ビジネスが急成長していることから、ゼンリンは有利に立っているようです。技術の変化に伴って自社の提供する商品・サービスを転換していくことは、企業を成長させていく上で重要だと言える一例です。

 (参考文献 成功事例に学ぶマーケティング戦略の教科書)

セコムの事業領域拡張のイノベーション

本日はセコムの事業領域拡張のイノベーションに関して記載します。

自らに枠をして、その範囲の中だけで活動しているといい結果にならないということがあります。アメリカの鉄道事業が自らを輸送事業ではなく、あくまで鉄道事業と定義し、自動車や航空会社をライバルとして見ず、近視眼的な経営を行っていたことにより衰退したという話はよく聞きます。イノベーションを提唱した経済学者のシュンペーターは、イノベーションは経済発展に重要な役割を果たしていて、そのイノベーションの要素の一つに「新しい組織の改革・実現」を挙げています。警備会社のセコムは事業領域を定めつつも、新たな事業モデルを構築することで事業領域を広げ、成長してきました。

セコム(旧日本警備保障)は1964年に開催された東京オリンピックで選手村の警備を行った実績が評価されて、事業に対する信頼を高めました。しかしながら当時は常駐警備が主流でしたので、業務の拡大に伴い人件費は増えますし、要員数以上の業務の拡大が行えないというデメリットを抱えていました。この問題を解決するために考案されたのが「機械警備」というオンラインセキュリティシステムでした。この仕組みはオフィスや工場に設置されたセンサーなどの保安機器と、同社のコントロールセンターとを通信回路で結び、異常が起こるとセンサーが感知した信号を同センターへ送信、警備会社の担当が駆けつけるというものです。機械警備は導入当初は“警備は人が行うもの”というイメージが強く、世間からあまり受け入れられていませんでしたが、1969年に起きた永山則夫連続射殺事件をきっかけにその関心が高まっていきます(千駄ヶ谷の専門学校に殺人犯が侵入。オンラインセキュリティシステムが作動し、警官が駆けつけたことにより犯人が逮捕された)。この流れの中、セコム(旧日本警備保障)は事業スタイルを従来の巡回警備から機械警備へとシフトさせていきます。

その後、セコムは一般家庭向けのセキュリティサービスやココセコムという専用携帯端末を利用した個人向けのサービスも実施。現在では同社の事業を治安・犯罪だけでなく、事故、自然災害、病気、サイバーリスクといった領域にまで広げています。

セコムの取締役最高顧問で創業者の飯田亮氏は「イノベーションというのは技術革新のことではなく、思想のイノベーションなんだ」と発言したそうです。日頃から自分の枠にとらわれず、柔軟な思考を持って行動・チャレンジしていくことは成功のカギとなるのかもしれません。

 (参考文献 成功事例に学ぶマーケティング戦略の教科書)