本日はヤマダ電機の成長の背景に関して記載します。
ヤマダ電機の売上高は2兆1533億円(2011年3月期)で、2位のエディオンの8200億円を大きく上回り、圧倒的な市場地位を獲得しています。1973年に松下電器系列店として8坪の店舗規模として創業したヤマダ電機は(当時ヤマダ電化センター)は、その後、低価格販売を行う家電量販店の道を進んでいきます。
【ライバル『コジマ』との戦い 低価格路線へ】
家電量販店の道を歩み始めたヤマダ電機は1983年に高崎店を含め3店、翌年には群馬県内に5店出店するなど、栃木県を中心に量販店を展開していたコジマとの競合を避けながら多店舗展開し、売上を伸ばしていきました。しかしながら、出店地域が拡大するとともに、ヤマダ電機とコジマの競合が避けて通れなくなりました。コジマは78年にロードサイド型店として宇都宮東店を出店して以降、郊外に多店舗展開を図り、87年には500平方メートルクラスの店をすでに50店展開していました。コジマとの差別化を図るべく、ヤマダ電機は1987年にNEBA(家電量販店各社が1972年2月に結成。メーカーおよびほかの小売店との協調路線と非価格競争を重視する方針)に加盟し、メーカーとの正規取引による定番商品の安定的な仕入れを行うとともに、無料点検の巡回車を走らせるなどサービス重視を打ち出します。しかし、低価格攻勢が強まる中、サービス重視は顧客の支持を得ることが出来ず、バブル崩壊後の1992年、ヤマダ電機の業績は急速に悪化してしまいます。この流れの中で、ヤマダ電機は家電製品の販売で顧客の支持を得るためには、何より低価格が第一であることを再認識し、コジマに負けない低価格を実現するためにコスト削減に乗り出します。93年にNEBAを脱退。価格競争で優位に立つためには、粗利を削って低価格を訴求するだけでなく、売場面積当たりの一般管理費を引き下げることが必要だと考え、店舗規模の大型化を図ります。また、仕入れ条件を改善するためにも多店舗化が必要でした。量を売ることによって低価格販売が可能になるからです。
【多店舗展開へ向けて『資金調達』】
ヤマダ電機が設備投資資金を調達しようとした時、景気後退の影響もあり、銀行からの資金調達が思うように進みませんでした。そこでヤマダは普通社債・転換社債を発行し、6.5億円を調達。また90年代、複数回にわたりスイスフラン建ての転換社債で多額の資金調達を実現しました。海外投資家から多額の資金を調達できたのは、ヤマダ電機に明確な成長戦略と株価成長のシナリオがあったためです。当時、大型店に対する規制が緩和されたことで、ヤマダ電機は「地価の安い郊外ロードサイドに低価格を訴求した大型店を多店舗展開し、マーケットシェアを高め、スケールメリットを活かして成長を加速する」いう明確な経営方針を投資家に表明していたのです。ヤマダ電機は市場から得た豊富な資金で大型の多店舗展開を進め、成長を加速。それにより売上高・利益が増加し株価も上昇。高株価を活かし、公募増資や転換社債の発行を相次いで実施し、1回数百億円単位で資金調達していきます。豊富な資金の調達に成功したことにより、ヤマダ電機は売上高を急増することに成功したのです。
【ヤマダ対コジマ 規制緩和の影響による勝敗の分かれ目】
ヤマダ電機が多店舗展開を本格化しようとした時期、大店法による大型店の出店規制が緩和されました。郊外ロードサイドに広い駐車場を備えた売場面積3000平方メートル以上、年商30~50億円超の大型店を展開することで売上高を急伸させていきます。それに対してコジマは大店法の規制が厳しい時代に多店舗展開を進めており、500平方メートル未満の店が多い状態でした。そのためコジマの小型店は大型店と比べ品揃えなどの面で競争が劣り、結果としてヤマダ電機は独走。ヤマダ電機の販売力が向上するにつれてメーカー販社は取引を拡大するようになっていきます。その結果、売れ筋商品が手に入りやすくなり、ヤマダ電機はその売れ筋商品をチラシに掲載し、低価格販売により集客。競合店名を出し、競合店より安いと表示する「比較売価表示」を実施することで、価格が安い店という企業イメージを消費者に植え付けていきます。1996年にコジマの本拠地である宇都宮に出店する際には、オープン記念で目玉とした1円商品が、マスコミから注目されました。
【パソコンの普及の波に乗る先見性】
ヤマダ電機は2000年代、売場面積3000平方メートル級を標準とするテックランド店を出店戦略の要としました。その広い売場の半分に、それまで扱っていた白物家電などの家電製品を置き、残り半分をこれまで家電ディスカウンター各社があまり扱ってこなかったパソコンや関連商材の売場に当てます。ウィンドウ3・1が92年に販売されてパソコンが普及し始めたころ、家電量販店業界ではまだパソコンに詳しい人材は少なく、パソコンは秋葉原などの専門店で一部の人が購入する特殊な商材だと思われていました。しかしヤマダ電機は90年初めからパソコンの開発・販売に乗り出し、自前で人材を育成していました。それによりパソコン売場を軌道に乗せることが出来たのです。
他社が大型店の出店を躊躇したり、パソコンの需要の拡大を読み切れなかったりしている中、ヤマダ電機は時代を読み、先を見て動いていたため、業績を伸ばすことが出来ました。ヤマダ電機の現在の地位は、環境変化を読み取る能力が、その後の成長につながっていくという事例だと思われます。
(参考文献 日本優秀小売企業の底力)